出世の街の新たな事実

浜松商工会議所創立120周年記念式典に参加しました。

浜松が市になる18年前の明治26年(1893年)に「浜松商業会議所」として設立されたそうです。

翌年は日清戦争が起きた年であり、まさに欧米の産業文明が押し寄せていた時期です。浜松には、当時から産業都市としての素地があったんですね。

120周年のテーマは「つなぐ地域の底力!」。これまで受け継がれてきた浜松の力を未来へとつないでいこうという趣旨です。

それを受けての記念講演「家康・秀吉と現代浜松をつなぐ」では面白い話が紹介されました。

講師は静岡文化芸術大学の磯田道史准教授。映画「武士の家計簿」の原作者でもある歴史学者です。

面白い話とは・・・、

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①浜松は“秀吉”の最初の就職先(出世の第一歩)

豊臣秀吉が頭陀寺町に住んでいたことは、知っている人は知っている浜松の史実です。これは秀吉に関する文献では最も確からしいといわれる「太閤素生記」に書かれています。

秀吉は1551年、16歳の時に名古屋を離れ浜松に来ました。“牽馬ノ川”の橋のたもとで、汚れた白い木綿の服を着て“縫い針”を売っていたとのこと。

そこを通りかかったのが引馬城主 飯尾豊前守の家来で、頭陀寺の小城の主 松下加兵衛。その時の様子を次のように書いてあります。

「浜松に至る道にて猿を見付ける。異形なるものなり。猿かと思えば人。人かと思えば猿」

ひどいですね~。後の太閤殿下を、ホントに「猿」呼ばわりしています。

「幼少のものがどうして遠くから来たのか?」と聞くと「奉公を望んで来た」と。加兵衛は笑って「吾が家で働くか」といい、飯尾豊前守のところへ連れて行ったそうです。

加兵衛はそこでも「猿かと思えば人。人かと思えば猿」と紹介し、豊前守の子や周りの者はみな笑ったとのこと。そこでさらに、栗の皮を口で剥き、猿のように食べたというから、秀吉も腹が座っています。

まるで見世物ですが、それ以降、秀吉は皆から愛されるようになりました。草履取をはじめさまざまな仕事をしましたが、さすが天下人秀吉、加兵衛の期待通りの働きをしたとのこと。

その後は、仕事ができすぎて、同僚(小姓共)のねたみを買い(いまでいうイジメ、パワハラですね)、加兵衛に暇(と退職金)をもらい、18歳の時に名古屋に帰っていったとあります。

このように秀吉が、“社会人”としての第一歩を記した地が、浜松であるということです。

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②いまの浜松があるのは織田信長のおかげ!?

次は家康公のお話。出世の街の主人公 徳川家康は、1570年の夏、浜松に来たそうです。

当時、遠州の国府は磐田の見付でした。家康は当初、当然のように見付に住むつもりだったようです。すでに居城の図面も書いていたそうですが、信長の“鶴の一声”で浜松になったとのこと。

「信玄と敵対した時、見付城では天竜川があるから後詰ができない。浜松を居城にしなさい」

浜松城は信長によって築かれたといってもおかしくないですね。もし見付に築城されていたら・・・。これも“歴史秘話”ですね(「東照宮御事蹟」より)。

さらに磯田先生は言います。記念すべき浜松城入城は「1570年8月28日としてはどうか」とのこと。

この日は家康の子 三郎信康の元服をおこなうとともに、終日猿楽を催し、遠江と三河の両国から、武士だけでなく郷民を大勢集めお祝いしたとのことでした。

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出世の街の新たな事実浜松の歴史を、これからにどうつなぐか。

「出世の街 浜松」のシティプロモーションに活かせそうな夢あるお話だと思いませんか。

写真は「家康公パワーカード」。いつも身につけています・・・^^


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